海上保安レポート2003
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2 船舶交通を支える海上保安庁


3 時代のニーズを反映し続ける船舶交通

 海上保安庁は、昭和23年の創設以来、時代の変化に対応して船舶交通の安全を確保するため、様々な取組みを行ってきました。

1 暗黒の海からの脱却(昭和20年代)

 海上保安庁が創設された昭和20年代は、未だ戦後の混乱が続く時代でした。

 我が国の海の玄関である港湾や水路は、日米双方が敷設した機雷や多数の沈船により閉塞されていました。また、港湾までの道しるべとなる灯台などの航路標識は、米軍からの攻撃によりその約3割が破壊され、残ったものも燃料不足などにより著しく機能が低下しており、航行する我が国の船舶も戦時中に粗造されたものがほとんどで、船舶交通の安全の基盤は全く失われていました。

 また、密航などの悪質犯罪が多発し、海賊の横行が伝えられるなど海上の治安も著しく悪化した状態でした。

 まさに「暗黒の海」と言うべき状態にあった我が国の海上をいち早く安全な海にすることは、我が国政府のみならず、当時我が国を占領していた連合国軍にとっても大きな関心事でした。

航路標識の復旧

 当時、航路標識は国が管理するものと地方公共団体が管理するものに分かれていました。財政難にあえぐ地方公共団体では、航路標識の復旧が遅々として進まず、連合国軍総司令部は昭和23年10月、公的に設置された航路標識をすべて海上保安庁の管理下に置くよう指令し、翌24年2月3日、航路標識の統一的管理に関する基本方針が次官会議において決定されました。

 その後、航路標識は順次、海上保安庁に移管されましたが、並行して、航路標識の設置及び管理に関する法律の制定(航路標識法)、航路標識の保守・運用を行うための航路標識事務所の設置が進められました。

港則法の制定

 明治に入ってから諸外国との貿易が本格化し、大型外航船も就航し、それに合わせて港も次々と建設されていきました。その後、我が国の海運は飛躍的に発展しました。

 明治31年7月には「開港港則」が制定され、函館、京浜、大阪、神戸、関門及び長崎の6港における船舶の交通ルールが定められました。しかし、その他の港については、地方公共団体がそれぞれ独自に管理していたため、船舶の交通ルールはバラバラな状態が続くことになりました。

 戦後、海上保安庁の創設と同時に船舶交通の安全確保に関する業務は海上保安庁に一元的に集約され、昭和23年7月、開港港則に代わって「港則法」を制定しました。

 港則法は、港内の船舶交通の安全と整とんを図ることを目的として適用対象港を56港まで拡大し、主要港湾における全国共通の船舶の交通ルールを確立しました。

 これが、海上保安庁の航行安全行政のスタートです。

2 経済発展を支える船舶交通(昭和30年代)

 朝鮮戦争による特需により、我が国経済は戦後の混乱からようやく抜け出し、飛躍的な発展を遂げる時代に入りました。

 我が国の船舶保有量も年々増加し、港湾に出入りする船舶の隻数も増加の一途をたどりました。船舶自体も大型化などが進み、昭和31年には造船、輸出船ブームにより、我が国の造船量は世界第1位に上り詰めました。港湾も我が国の貿易拠点として順次整備され、同時に臨海コンビナートの建設も進められました。

 このように、経済発展に伴い我が国の貿易を支える船舶交通も活発化していきました。しかし、それとともに海難もこの頃から徐々に増加してきました。

海難防止活動の活発化

 船舶の海難は、台風などの異常気象によるもの、機関故障など船舶そのものによるもの、運航の過誤や機関取扱不良といった人為的要因によるものなど様々です。青函連絡船「洞爺丸」が沈没するなど、海難は昭和31年まで徐々に増加する傾向にありました。

 原因別では、昭和20年代に多くを占めていた機関故障が昭和30年代に入って次第に減少し、代わって人為的要因によるものが多数を占めるようになりました。

 また、昭和28年以降の遊覧船の増加、戦後の沖合、遠洋漁業への進出に伴い、旅客船や、沖合、遠洋における漁船の海難の増加が見られるようになりました。

 このため海上保安庁では、海難防止のための啓蒙活動を推進するに当たり、台風や冬季気象に重点をおいた活動に加えて、船舶の種類に応じた活動を展開し、それぞれの事業活動の形態に合わせた海難防止指導を行いました。

 その結果、昭和32年以降、海難の発生は減少傾向に転じました。

当時の海難発生数(異常気象によるものを含む)
当時の海難発生数(異常気象によるものを含む)

航路標識の集約管理

 「灯台守」という言葉をご存じかと思いますが、岬の突端や離れ小島などのへき地にあることの多い航路標識を保守・運用するために働く職員は、灯台に住み込み、不便な生活を余儀なくされました。

 一方で、航路標識の数が増加するのに対して、保守・運用する職員の数は横ばいであったことから、新たな管理方法を検討しなければなりませんでした。

 このため、昭和31年1月に「集約管理計画」を策定しました。集約管理計画が目指したものは、人員の配置を合理化し、経済効果も考慮しながら、単数管理から機械化を基盤とした複数管理又は地域管理へ移行しようとするもので、次の内容を柱としていました。

  1. 管理区域内の複数の航路標識を一括管理すること
  2. 職員を常置する航路標識については、交代制勤務とすること
  3. 航路標識の機器は極力自動化、遠隔操縦化すること

【集約管理とは】
集約管理とは

3 大規模海難との戦い(昭和40年代〜昭和50年代)

 昭和39年の東海道新幹線の営業開始や東京オリンピック開催の後、昭和40年代になって大阪万国博覧会が開催されるなど、我が国の経済は完全に復興し、高度経済成長の階段を駆け上がっていきました。

 船舶交通も経済の好調に支えられ、21万重量トンのマンモスタンカーの完成や、大型コンテナ船の就航など、船舶の大型化、専用化が進み、自動化、合理化された船舶が一般化していきました。

 また、船舶の変化に対応して、神戸港をはじめとする主要な港湾でコンテナターミナルの建設が急速に進められていきました。

 このような船舶交通を取り巻く環境の変化は、それまでの安全確保の考え方では対応しきれない問題を次々と発生させることになりました。

海上交通安全法の施行

 タンカーの大型化や危険物積載船の増加により、事故が発生すればその被害が船舶にとどまらず、周辺の海域や沿岸にも及ぶ可能性が高まりました。船舶の交通がふくそうする東京湾、伊勢湾及び瀬戸内海では、当時、衝突や乗揚げなどの海難が多く発生していました。

 昭和37年11月には、京浜港でタンカー同士が衝突し、流出したガソリンが炎上し、両船のほか付近を航行中の船舶も類焼するとともに、41名の命が失われるという大事故も発生していました。

 このため、海上交通安全の制度に関する事務を担当していた運輸省海運局(当時)では、それまで狭水道等における交通ルールを定めていた「特定水域航行令」に代わる新たな海上交通法制の検討を昭和39年から開始しました。

 その後、昭和41年に海上交通安全の制度に関する事務が海上保安庁に移管され、この検討は海上保安庁が行うことになりました。

 昭和45年10月には、東京湾浦賀水道でタンカー同士の衝突事故が発生し、死者6名、行方不明者1名の被害を出しました。その他にも昭和46年11月に新潟港で発生した「ジュリアナ号」乗揚げ・油流出事故などの大規模な海難が発生するとともに、外国においても1967年(昭和42年)3月にイギリス南西海岸で「トリーキャニオン号」乗揚げ・油流出事故が発生するなど、海上交通法制の整備は急務となりました。

 そして、昭和48年7月1日、「海上交通安全法」が施行され、船舶交通がふくそうする東京湾、伊勢湾及び瀬戸内海における特別の交通ルールを定め、危険を防止するための規制を行うことにより船舶交通の安全を図ることとなりました。

 現在もふくそう海域の交通ルールは、この法律を基本としています。

タンカー第一宗像丸衝突炎上事故(昭和37年11月18日発生)
タンカー第一宗像丸衝突炎上事故(昭和37年11月18日発生)

ジュリアナ号乗揚げ・油流出事故(昭和46年11月30日発生)
ジュリアナ号乗揚げ・油流出事故(昭和46年11月30日発生)

【東京湾における海上交通ルール】
東京湾における海上交通ルール

電波標識の整備・普及

 航路標識には、大きく分けて光波標識と電波標識があります。光波標識とは、灯台に代表されるように光や構造物の形状、塗色により標識の意味を表す航路標識です。電波標識とは、雨、霧などに左右されることなく標識が発する電波を受信して自船の位置などを簡単に求めることができる航路標識です。

 戦後、米軍は、我が国周辺海域において広域電波航法システムの一つであるロランA局の整備を始めたことにより、船舶の自動化、乗組員数の減少に対応した高性能な電波標識が利用できるようになりました。しかし、我が国周辺海域すべてをロランAが網羅できていなかったため、漁業関係者などから新たな電波標識の設置の要望が高まりました。

 このため海上保安庁では、昭和42年7月にロランAよりも精度の優れたデッカを新たな電波標識として整備しました。また、全世界を8つの送信局のみでカバーする全世界的測位システムであるオメガシステムのうち1局の運用を昭和50年5月に開始しました。

【オメガシステムの概念図】
オメガシステムの概念図
全世界を8局のみの送信局でカバーし、地球上どこにいても自船の位置測定が可能

対馬オメガ局
対馬オメガ局

海上交通センターの発足

 東京湾などの船舶交通がふくそうする海域は、漁業活動など他の海域利用と競合し、重畳化している状況でした。

 そのため、昭和48年7月、海上交通安全法の施行に伴い、東京湾の浦賀水道航路と中ノ瀬航路を航行する巨大船の管制を開始しました。

 その後、昭和49年11月に東京湾において発生したLPGタンカー「第拾雄洋丸」とリベリア籍貨物船「パシフィック・アリス号」の衝突・火災事故などを契機に船舶交通のより一層の安全確保を図るため、情報提供と航行管制を一元的に行う施設を設置することとなり、昭和52年2月、横須賀の観音埼に「東京湾海上交通センター」が発足しました。

 東京湾海上交通センターは、東京湾内の4カ所に設置したレーダーにより、東京湾を航行する船舶の動きを常時把握し、航路しょう戒を行う巡視船艇と連携しながら、航行船舶に対して他船の動静、操業漁船群などの情報提供を行うとともに、航路内での巨大船の安全な航行間隔を確保するための航行管制を行っています。

 現在、海上交通センターは、平成15年7月に正式運用を開始する「伊勢湾海上交通センター」を加えて全国7カ所に設置されています。これら海上交通センターからの情報提供などにより、衝突・乗揚げなど大規模海難を未然に防止した事例も数多くあります。

開設当時の東京湾海上交通センター
開設当時の東京湾海上交通センター(外観)開設当時の東京湾海上交通センター(内部)

4 海洋利用の多様化への対応(昭和60年代以降)

 昭和60年代に入ると、ゆとりある生活が求められるようになるとともに、法定労働時間も短縮され、余暇を楽しもうとする人々が増えました。

 その中で、マリンレジャーの活動も活発化し、様々な人が「海」を利用するようになりました。

 これまで海を利用する人は漁業者や船舶の乗組員など、日頃から仕事の中で海を利用していた人々でしたが、マリンレジャーを楽しむ人は、日頃は陸上で活動している人々であるため、海難を未然に防止するための情報提供の対象拡大に力を入れる必要が生じました。

 また、GPSの民間への普及は、船位測定の新たな時代を切り開きました。

「ボート天国」の開催

 マリンレジャーの多様化・活発化に合わせて、マリンレジャーの安全の確保、健全な発展を目指し、マリンレジャーを行うことが困難な大都市の港湾を中心に、一般船舶の航行や停泊を制限する海域を設け、気軽にヨットや手漕ぎボートなどを楽しみながら、安全に関する知識や技術、海のマナーなどについて学んでもらえるよう、海の歩行者天国とも言える「ボート天国」を昭和63年に開始しました。

 その後毎年、全国各地でボート天国を開催し、マリンレジャーの健全な発展と海難防止思想の普及・啓蒙に寄与しています。

ボート天国
ボート天国

大規模海難の発生

 昭和63年7月、東京湾の横須賀港沖で遊漁船「第一富士丸」と海上自衛隊の潜水艦「なだしお」が衝突し、30名の方が亡くなりました。その後、東京湾で大きな海難は発生していませんでしたが、平成9年7月、東京湾の横浜市本牧沖でタンカー「ダイヤモンドグレース号」が海底に接触し、積荷の原油約1,550キロリットルが流出しました。

 この事故を契機に、海上保安庁では、この海域におけるより一層の船舶交通の安全を図るため、平成11年2月、東京湾中ノ瀬西側海域に「整流ブイ」3基を設置し、航行する船舶を整流しています。

【東京湾中ノ瀬西側整流ブイ設置概要図】
東京湾中ノ瀬西側整流ブイ設置概要図

関門海峡 緊急事態回避事例

(1) 平成14年7月28日午後6時頃、外国籍旅客船O号(総トン数2,963トン、乗客107名)は、関門航路(関門海峡)を北西(瀬戸内海から玄界灘)に向け航行していたが、航路の左側に寄って航行していたため、関門海峡海上交通センター管制官はO号に対して右に変針するよう指導した。

(2) しかし、O号に変針する様子が見受けられず、さらにO号の前方にある浅瀬に近づいていたため、管制官から「前方に浅瀬あり、要注意。」と注意喚起を行った。O号は、速力約30ノット(時速約60km)の高速で航行する旅客船であったことや、海難が発生すれば人命への影響は免れないことから、管制官は粘り強く注意喚起を続けたところ、注意喚起を始めてから2分後、O号は減速した。さらに8分後、変針を開始し、未然に浅瀬への乗揚げ海難の発生を防止することができた。

(3) O号には107名もの乗客が乗船しており、速力約30ノットという高速で乗揚げ海難を起こしていたら、人命にも多大な影響が出ていたと予想されたことから、門司海上保安部はこの事態を重く見て、O号が再度入港した際に厳重に安全航行の指導を行った。

旅客船O号の航跡

新たな電波航法システム

 海上保安庁では、米国が日本周辺海域を対象に運用していた広域電波航法システムであるロランCを、平成5年7月から段階的に引き継ぐとともに、ロシア、中国及び韓国と国際協力チェーンを構築し、その有効範囲を拡大しました。これにより、従来の広域電波航法システムであるロランA、デッカを平成13年までに全廃しました。また、米国が軍事用として運用している全世界的測位システムであるGPSの民間利用が普及したことに伴い、同様のシステムであるオメガを平成9年に廃止しました。

 現在、我が国周辺海域では、衛星系システムのGPSと地上系システムのロランCとが相互にバックアップし、電波航法システムとして利用できる環境を構築しています。

 さらに、GPSの精度を1m以下に向上させ、港湾、狭水道などにおいて高精度の測位を常時行える電波航法システムとして、ディファレンシャルGPSを導入し、その運用を平成11年4月に全国で開始しました。

【ディファレンシャルGPSの仕組み】
ディファレンシャルGPSの仕組み

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