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本編 > 特集 > 2 > 5 新時代の幕開け
海上における集団行動の鎮圧など警備事案への対応において、昭和40年代後半から昭和50年代前半にはこれまでとは異なる大規模なものが相次いで発生しました。 昭和49年には原子力船「むつ」の出港阻止及び放射能漏れ事故に伴う定係港への入港阻止を訴える数百隻の漁船による海上デモ、アラブ・ゲリラや過激派による船舶や臨海石油施設などへの襲撃情報に対応した警戒、昭和50年の沖縄の本土復帰記念行事として開催された「沖縄国際海洋博覧会」の会場やその周辺海域における安全確保のための警戒、発電所や石油施設、港湾などの臨海開発反対運動に伴う建設用資機材搬入船の入港阻止活動への対応などがその一例です。このような警備事案への対応は、長期間にわたるものや多くの人員、船艇を投入しなければ対応できないものなど、海上保安庁として勢力を集中投入するために、時には全国から巡視船艇を派遣するなどその対応手法も変化していきました。 ▲原子力船むつ出港阻止に係る海上紛争 密輸事犯についても、手口の巧妙化・組織化が進む中、通常の取締り手段のみで事犯の端緒をつかむことはますます困難となるとともに、世間の注目は貴金属や機械製品などの密輸から麻薬や覚せい剤、銃器などの密輸へと徐々に変化していきました。このため、特に潜在的に敢行される麻薬・覚せい剤などの密輸に関する内偵、情報収集を強化し、摘発体制を強化していきました。その結果、昭和50年には遠洋マグロ漁船乗組員によるけん銃及び弾薬密輸、昭和51年には米国軍用タンカー乗組員による覚せい剤密輸を相次いで摘発しています。 昭和52年は、海上保安庁の業務範囲を大きく変える節目の年となりました。新海洋秩序への対応です。これまで我が国は領海の幅を3海里(約5.6km)と主張していましたが、国連海洋法会議における審議を受け、領海の幅を12海里(約22.2km)まで拡大するとともに、我が国の基線から200海里(約370.4km)の沖合海域までを漁業水域として主張することとなり、このための法整備も行われました。領海といえば、我が国の国土、つまり領土と同じ我が国固有の領域であり、その領域においては我が国の管轄権を明確に確立する必要があります。この領海の拡大は、それまで我が国の管轄権が及ばなかった距岸3海里から12海里までの海域内で発生した事件についても領海内での事件として我が国の捜査を行いうるようになるとともに、水産資源などの天然資源、科学調査、海洋汚染の防止に関する管轄権などについては距岸200海里まで及ぶようになるものであり、海上保安庁としては我が国の海上における第一義的な法執行機関として厳格な対応を求められることとなるものでした。このような警備業務の激増に対応するための巡視船艇・航空機、職員の増強などが緊急に進められた時期でもあり、現在も継続されている領海警備の発端ともなった大きな変針点でもありました。事実、尖閣諸島周辺海域、宮古・八重山列島周辺海域、奄美群島周辺海域、沖縄群島周辺海域、対馬周辺海域などにおける領海侵犯事件が飛躍的に増加するとともに、我が国の漁業水域と競合するソ連、中国、韓国との間において漁業に関する各種協定の締結により新たな漁業秩序も構築され、これにより円滑な取締り体制もあわせて構築されていきました。 世界各国における200海里の漁業水域設定の動きは、漁業以外にも現在まで引き続く新たな問題を生じさせました。沿岸国に海底天然資源の探査・開発の主権的権利が認められた結果、各国による海洋調査活動が急激に活発となり、我が国周辺海域に外国海洋調査船が出没、活動するようになりました。特に魚釣島をはじめとする10の島々からなる我が国固有の領土である尖閣諸島周辺海域は、昭和43年に日本、韓国、台湾の専門家などにより海底の調査を行った結果、石油資源の存在する可能性が指摘され、外国海洋調査船による調査活動や、約100隻の中国漁船による集団領海侵犯事件など、尖閣諸島の中国、台湾による領有権主張が見られるようになり、新海洋秩序の構築により、その動きも顕著なものとなっていきました。このため、このような我が国周辺海域で活動する外国海洋調査船の確認・監視活動も新たな業務として比重を増していきました。 ▲外国漁船への立入検査 |