海上保安レポート 2004
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本編 > 特集 > 2 > 2 平和条約の発効とその影響


 昭和27年4月、我が国と連合国との間で平和条約が発効しました。これにより我が国は主権国家として自立し、国内の治安も自らの手で維持していくことが必要となりました。また、平和条約の発効は、政治経済をはじめとする各分野において共産圏諸国の干渉が活発化する懸念も生じさせました。
 これまで見られた密航については、朝鮮動乱の休戦により朝鮮半島の情勢が安定したため減少はしたものの、これまでの重点的な取締りによって密航ブローカーが介在し、在日の韓国人と密接な連絡を取り合いながら巧妙に密航を敢行する事例が見られるようになりました。これは、密航請負組織による密航と相通じるものがあります。また、平和条約の発効により、共産圏諸国の我が国に対する諜報工作が活発化し、工作員の密入国も見られるようになりました。

ソ連スパイ船「ラズエズノイ」号検挙
 稚内海上保安部(北海道稚内市)は、樺太から北海道に密入国したソ連(当時)の諜報工作員をソ連スパイ船が再び迎えに来るとの情報に基づき、巡視船を知来別海岸に配備して警戒していたところ、昭和28年8月8日、工作員出迎えのため同海岸に接近したソ連漁業巡回船ラズエズノイ号(19トン、乗組員4人)を発見した。巡視船の停船命令に対して同船は逃走、火器を発射したので巡視船も同船に対して自動小銃、けん銃により射撃したところ、弾丸が同船の操舵鎖に命中、鎖が切断し、同船は逃走を断念、同船船長ほか乗組員全員を出入国管理令(当時)違反等により逮捕した。
ラズエズノイ号
▲ラズエズノイ号

 貿易面では、昭和26年から韓国と我が国の間の鮮魚貿易が開始され、これに伴う韓国小型鮮魚運搬船の我が国への出入りが増加していきました。この鮮魚の輸入に加えて、朝鮮動乱時に使用された銃砲弾薬などのスクラップも韓国から輸入されるようになり、韓国との貿易は活発化していきましたが、正規の貿易だけではそれほど利益も上がらないため、洋上での積み替えや船内に密室を設けて貨物を隠匿するなどして密輸を行う事例が増加しました。これは、これまでの密輸専用船を用いず、正規の貿易船を利用することから、外見上密輸を行っているのか否かを判断することができず、密輸情報を収集することの重要性が増してきました。このため、当時の海上保安庁としても情報の収集に重点を置き、組織体制の強化などを行いましたが、現在の密輸などのいわゆる国際組織犯罪の取締りにおいてもその重要性は変わっていません。
漁船のだ捕防止を行う巡視船
▲漁船のだ捕防止を行う巡視船
 平和条約の発効は漁業に関しても大きな動きをもたらしました。これまで我が国の漁業を制限していたマッカーサー・ラインが平和条約の発効に伴い廃止される動きとなるや否や、韓国は昭和27年1月、韓国水産業の保護を目的とした「海洋主権宣言」を発し、「李承晩ライン」を設定して韓国側の海域から我が国漁船を締め出しました。この海域には、現在も問題となっている我が国の固有の領土「竹島」が含まれています。竹島は東島と西島の2つの島とその周辺の岩礁からなる群島で、古くは文献などで「松島」と呼ばれ、明治時代には我が国の領有を閣議決定などにより再確認しています。しかし、戦後の占領下において行政権が行使できず、マッカーサー・ラインが設定された当時も竹島は我が国漁船の操業海域から外されていましたが、今度は韓国側の一方的な意図により竹島を不法占拠するに至ったのです。韓国側は李承晩ライン設定以降、我が国漁船に対して銃撃をも伴う激しい取締りを行うとともに昭和29年頃には竹島に灯台の用に供する構造物の建設、警備隊員の常駐などを行い、不法占拠を行いました。これに対して我が国も政府として韓国側に抗議するとともに、我が国漁船を韓国警備艇から保護するため、海域からの漁船の脱出や、乗組員の救出などできる限りの対抗措置を実施しました。
李承晩ライン設定海域の概略
地図
 また、平和条約の発効は、戦後制限されていた北洋漁業の再開への第一歩となり、母船式さけ・ます船団の出漁も年を追うごとに増加していきました。しかし、第二次世界大戦末期に日ソ中立条約に違反して対日参戦したソ連(当時)によって不法占拠を始めた歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島からなる北方領土の問題も少しずつ我が国漁業に影響を与えるようになってきました。この状況は現在も大きく変わっていません。戦後間もない時期からソ連の主張する北方領土周辺海域を含む領海12海里(約22.2km)付近では度々我が国漁船がだ捕され、乗組員の中には我が国に戻ることなく死亡するといった極めて不幸な結果となったこともありました。平和条約発効後の北洋漁業への期待が膨らんだのもつかの間の昭和28年6月、日本、アメリカ合衆国、カナダの3カ国間で北太平洋の公海漁業に関する条約が締結され、我が国は西経175度以東の海域においてさけ、ます、おひょう及びにしん漁が禁止され、北洋漁業に関して制限が加えられることとなりました。さらに昭和31年3月、我が国のさけ・ますの乱獲によりその数が減少していると警告するソ連により、北洋海域に保護水域(いわゆるブルガーニンライン)が設定され、北洋さけ・ます漁業が禁止されるに至りました。その後度重なる日ソ間の協議の末、昭和31年12月、ソ連との国交正常化の要となる「日ソ共同宣言」と同時に「北西太平洋の公海における漁業に関する日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の条約」が締結され、さけ・ます漁業の規制区域の設定、共同取締りの実施などの制度が確立し、北洋さけ・ます漁業が規模の縮小などの制限を受けながらも再開されることとなりましたが、沿岸部においては相変わらず北方領土周辺海域を含むソ連の主張する領海付近での我が国漁船のだ捕事案は消えることはありませんでした。
 我が国漁業は北洋漁業を例とする国際漁場への進出が制約され、狭小な国内漁場で多数の漁船が操業し、無許可漁業が横行し沿岸零細漁民への打撃は計り知れないものとなりました。これらに対して海上保安庁では強力な取締りを実施しました。当時の状況を反映した事案としては、沿岸漁業に集中したことによる水産資源の枯渇に起因する漁民相互の競争と対立の激化により紛争を生じ、漁船の破壊放火、集団暴行事件へと発展する事案も発生しており、海上保安庁では事件としての捜査に加え、紛争の未然防止として警告等により紛争を予防・回避する努力も続けました。
北方領土