四面を海に囲まれた島国である我が国は、物流や人の往来等、国民生活や経済活動の基盤において、幅広く「海」を利用し、その利便性を享受しているところですが、その一方で海を介して外国から我が国の平和や安全を害するものが流入してくるおそれにも直面しています。
この海が我が国の安全や秩序を脅かす入口や舞台になることがあってはなりません。そのため、海の警察機関である海上保安庁は、我が国領海*1における外国船舶の動きに目を光らせており、外国船舶が国際法で認められた「無害通航*2」や「緊急入域*3」以外の目的で領海内において停泊、徘徊したりしていないか、あるいは、不法行為を行っていないかを監視し、違反を発見した場合には、取締りを行う等領海警備に全力を尽くしています。
沖縄県石垣市の尖閣諸島は、昭和46年以降、中国、台湾が同諸島の領有権を公式に主張しており、度重なる領有権主張活動が展開されたことから、海上保安庁では周辺海域に常時巡視船を配備し、また定期的に航空機をしょう戒させ外国船舶による領海侵犯、不法上陸等に対する警備に当たっています。
また、我が国固有の領土である北方領土、竹島では、これまで様々な場面でその領有権について周辺国と問題が発生し、その都度、これらの島々は我が国の固有の領土であることを内外に明らかにしてきました。このような島々の領有権に関する問題は、領土の問題のみならず領海及び排他的経済水域などにおける水産資源及び鉱物資源などの我が国の国益に密接に影響します。
このような我が国を取り巻く環境において、我が国の領土・領海を守り、さらにはその周辺海域における周辺国の不法行動に対して我が国の毅然とした姿勢を明示していく必要があることから、これらの島々の周辺海域では、重点的に領海警備を行っています。
尖閣諸島
尖閣諸島は明治時代に正式に我が国の領土に編入されました。当時の政府は、明治18年以降再三にわたって尖閣諸島の現地調査を行い、単に無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいないことを慎重に確認したうえ、明治28年1月14日、現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行い、正式に我が国の領土に編入することとしました。明治29年頃には魚釣島や南小島ではかつお節や海鳥のはく製等の製造が行われており、魚釣島には、それに供した船着場や工場の跡が今も残っています。
また、戦後は、サンフランシスコ平和条約に基づき、尖閣諸島は南西諸島の一部として米国の施政権下に置かれ、昭和47年5月、沖縄復帰とともに我が国に返還され現在に至っています。
以上の事実は、我が国の領土としての尖閣諸島の地位を何よりも明瞭に示しています。 しかし、昭和43年、日本、韓国及び台湾の海洋専門家が中心となり、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)*4の協力を得て東シナ海海底の学術調査を行った結果、東シナ海の大陸棚には豊富な石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、これが契機となって、にわかに関係諸国等の注目を集めるようになりました。
台湾は、昭和46年4月、公式に領有権を主張し、平成11年2月には、同諸島を含んだ領海基線を公告しました。一方、中国も昭和46年12月から公式に領有権を主張し始め、平成4年2月には、尖閣諸島を中国の領土であると明記した「中華人民共和国領海及び接続水域に関する法律」を施行しました。
さらに、平成8年7月に国連海洋法条約が我が国について発効し、排他的経済水域が設定されたことに伴い、同諸島周辺における漁業活動への影響が生じたことに対する不満や、北小島に日本の政治団体が簡易な灯台を設置したことに反発し、台湾・香港等で「保釣活動」と呼ばれる領有権主張の活動が活発となり、尖閣諸島周辺の領海に侵入するなどの大規模な領有権主張活動が行われるようになりました。
平成14年4月、政府は、尖閣諸島を平穏かつ安定的な状態に維持するため、同諸島の魚釣島、南小島及び北小島の3島を同島の所有者から借り上げましたが、これに対しても、中国、台湾は激しく反発しました。
近年、特に中国において新たな活動団体が台頭し、急激にその勢力を拡大、全国規模で尖閣諸島の領有権主張活動を展開しています。こうした背景の下、平成15年6月、中国本土からは初めて、中国人活動家の乗船した船が尖閣諸島の領海内に不法侵入する事案が発生しました。さらに、同年10月に1件、平成16年1月と3月に2件の同種事案が連続して発生しています。中でも、平成16年3月の事案では、警備の間隙を縫って中国人活動家7名が魚釣島に不法上陸するに至りました。
海上保安庁では、平素から尖閣諸島周辺海域に常時巡視船艇を配備し、さらに定期的に航空機によるしょう戒を行うなど、警備に取り組んできたところです。しかしながら、平成16年3月の事案において、結果として不法上陸されるに至ったことを踏まえ、警備の体制や手法を強化するとともに、関係省庁とも密接に連携しながら、事前の情報収集を図り、万全な体制で厳正かつ適切な領海警備を行っていきま。 また、政府としては、以前から我が国の政治団体などに対して上陸しないよう指導を行ってきたところですが、上記上陸事案の発生を踏まえ、あらためて尖閣諸島への上陸禁止の意志を明確にしました。このような中、本年2月、魚釣島の灯台の所有者(漁業関係者)からその所有権を放棄するとの意思が示され、同灯台は民法の規定により国庫帰属財産となりました。
現在の魚釣島灯台は、昭和63年に日本の政治団体が設置し、その後漁業関係者に譲渡されていましたが、この灯台は、設置以来長年が経過し、付近海域での漁ろう活動や船舶の航行安全に限定的とはいえ寄与しており、更に国が賃借している土地の上に設置されているという事情もあることから、魚釣島灯台の機能を引き続き維持するため、平成17年2月、政府全体の判断により、必要な知識、能力を有する海上保安庁が航路標識法に基づく所管航路標識として「魚釣島灯台」の保守・管理を行うこととしました。
海上保安庁では、魚釣島灯台の設置を航行警報により航行船舶に周知し、官報告示するとともに、海図へ記載したところであり、今後とも、この灯台を適正に維持管理していきます。
▲活動家船舶(平成15年6月 | ▲領有権主張活動(平成16年1月) |
北方領土
▲国後島沖を警戒中のロシアスベトリャク型 警備艇 |
今から150年前の安政元年(1855年)、江戸幕府とロシア帝国との間で「日魯通好条約」が締結され、当時、択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間に自然に成立していた両国の国境を法的に画定し、択捉島以南の北方四島が我が国の領土、得撫島以北(千島列島)がロシアの領土と確認されました。樺太については、両国民混在の地として、国境は定められませんでした。
明治8年(1875年)、樺太で両国の利害が衝突し紛争が多発したことから、日本政府は樺太を放棄して北海道の開拓に全力を注ぐべきとし、「樺太千島交換条約」を締結しました。同条約では、我が国は樺太を放棄し、その代わりとしてロシアから千島列島を譲り受けました。北方四島については、先の日魯通好条約で既に我が国の領土とされていたので、樺太千島交換条約で我が国に譲り渡されると列記された島は、北方四島以外の得撫島以北の18の島々でした。
明治38年(1905年)、日露戦争に勝利した我が国は、「ポーツマス条約*1」により、樺太の北緯50度以南の領土をロシアから譲り受けました。
昭和26年(1951年)、戦後の占領下にあった我が国は、「サンフランシスコ平和条約*2」に調印し、千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄しました。しかし、これまでの条約締結の過程から放棄した千島列島の中には、北方四島は含まれておらず、日魯通好条約の締結以降、北方四島が我が国の固有の領土であることにはなんら変わりはありません。
北方四島を不法占拠しているロシアは、独断でこれらの島々の沿岸12海里を自国の領海と決めています。しかし、北方四島周辺海域は、水産資源の豊かなことで世界的にも有名な海域であり、しかも、根室の東端、納沙布岬から歯舞群島の中の一つである貝殻島までの距離は3.7q、色丹島までが73q、国後島までが37q、一番遠い択捉島でも144qしか離れておらず、小型漁船が容易に出漁できる距離にあることから、ソ連時代から現在に至るまで、ソ連・ロシアが主張する領海に無許可で侵入したり、あるいは許可内容に違反し操業しだ捕される日本漁船が後を絶ちませんでした。
一方で、平成10年2月、日本・ロシア政府間において「日本国政府とロシア連邦政府との間の海洋生物資源についての操業の分野における協力の若干の事項に関する協定」が署名され、その年10月から北方四島周辺の指定された海域における操業が開始されており、海上保安庁では、だ捕等の発生が予想される北海道東方海域のロシア主張領海線付近等に常時巡視船艇を配備し、出漁船に対し直接、又は、漁業協同組合等を通じて被だ捕の防止指導を行っています。