1 原発周辺海域の監視警戒
平成23年3月15日に政府が発出した「避難指示」(福島第一原子力発電所から半径20km圏内)及び「屋内退避指示」(同発電所から半径20〜30km圏内)を受け、同発電所から半径30km圏内の海域を「航行危険区域」として航行警報を発出し、十分注意して航行するよう指導を行いました。
同年4月22日には、政府が「警戒区域」(同発電所から半径20km圏内)及び「緊急時避難準備区域」(同発電所から半径20〜30km圏内海域:同年9月30日解除)を設定したことを受け、「警戒区域」については航行を制限するとともに、「緊急時避難準備区域」については、緊急時に避難が可能な準備を行った上で立ち入るよう指導を行いました。他方、放射線の影響を恐れた内航船が福島沖の航行を避ける動きが見られたため、国土交通省海事局と協議した結果、福島第一原子力発電所沖においては、内航船にかかる航行区域の規制(海岸線から20海里≒約37km以内(沿海区域)を航行)を適用しないといった例外的な措置がとられることとなり、その結果、内航船はその沖合を航行できるようになりました。
このように、海上保安庁では、福島第一原子力発電所の事故を受けて、警戒区域等の設定や航行時の留意事項について航行警報や沿岸域情報提供システム(MICS)により情報提供を行ったほか、航行危険区域等の外縁部の南北に、それぞれ巡視船1隻を常時配備して監視警戒を行い、航行船舶の安全確保を行っています。これらの措置により、首都圏以西と被災地域や北海道を結ぶ重要な海上輸送路の確保に大きく貢献しています。
2 緊急輸送路の確保
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▲港内の水深を測量する測量船「明洋」 (平成23年3月17日、宮城県仙台塩釡港(塩釡区)) |
今回の震災では、地震と津波で道路や鉄道が各地で寸断され、被災地では飲料水、食料、ガソリンをはじめとして様々な物資が不足していたことから、大量輸送が可能な海上輸送路を一刻も早く確保する必要がありました。
そのため、国土交通省港湾局と連携して、港湾内に沈没したコンテナや車両等を引き揚げた後、海上保安庁の測量船が、水深を確認するための水路測量を実施しました。この測量により安全を確認し、震災発生から約2週間で被災地の主要港湾における一部岸壁の供用が開始されるなど、緊急支援物資の輸送拠点となる港湾機能の早期回復に貢献しました。
3 航行安全の確保
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▲漂流物の状況 (平成23年5月5日、岩手県山田湾周辺海域) |
津波によって流されたがれきや漁網等は海上に漂流し、船舶通航の障害となっていました。海上保安庁では、航行警報を発出し、通航船舶に注意を呼びかけました。
港湾内や漁港内で沈降又は漂流するがれき等の航路障害物については、港湾管理者による港の機能回復に向けた取組みの中で除去が進められましたが、その一方で、港外から沖合にかけての海域では、広範囲に大量の漂流物が残されたままの状況でした。このため、海上保安庁では国土交通省港湾局と連携して、これらの漂流物を除去し、航行安全を確保するため、民間業者に委託して回収船2隻で航路障害物の回収作業を行うとともに、港湾局(地方整備局)においては、所属海洋環境整備船4隻により回収作業を行いました。
海上保安庁では、平成23年5月3日から7月13日までの間、主に岩手県山田湾、大船渡湾及び大槌湾周辺海域で、また、同年7月13日から14日までの間、茨城県大洗沖で、それぞれ漂流物を回収し、合計で12,372.9m3の漂流物を回収・運搬しました。
このほかにも、緊急物資を積載した船舶の安全な入港を支援するため、巡視船艇による警戒や港内の仮設ブイの設置などの航行安全対策を行いました。
4 漂流船舶への対応
津波により発生した漂流船舶については、生存者の有無の確認を最優先に対応するとの方針に基づき、平成23年3月18日までに173隻を発見し、その全てが無人であることを確認した上で、翌19日からは、今後の使用可能性や海上交通に支障を及ぼすおそれの有無等を考慮して、大型作業台船や漁船等のえい航救助にも着手しました。
平成24年3月19日までに、海上保安庁は506隻の漂流船舶を発見して、無人であることを確認するとともに、使用可能性のある船舶85隻(台船等20隻、漁船54隻、プレジャーボート11隻)をえい航救助し、平成24年1月19日までに所有者等に引き渡しました。
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▲無人で漂流していた作業船をえい航し石巻港に向かう巡視船「あぶくま」 (平成23年3月23日、福島県相馬港沖東約70km) |
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VOICE 燃えた! 仙台塩釡港の早期航路啓開
被災港湾の緊急輸送路の確保に尽力した職員の声
第二管区海上保安本部宮城海上保安部 交通課長 田中 利夫
まさかこのような想像を絶する被害になろうとは…。庁舎近くに係留する小型船が津波に翻弄され、橋等に激突、残骸の山と化し、港口等に大量のコンテナが漂流、航路を明示する灯浮標が目の前から消えた。
翌朝、港内調査を徒歩で実施。大量のコンテナ、車が流出し、海上を漂い、灯浮標も流出し、港の機能は完全に停止した。東北全域で物流が滞り、食料、ガソリン等もない。東北のエネルギー不足を解消すべく、タンカーを1日も早く同港にある石油基地に入港させる必要もあった。
物資輸送の海の動脈確保のため、仙台塩釡港を早急に啓開するミッションが海上保安庁、東北地方整備局、宮城県、海上自衛隊の4機関の連携でスタートした。一大ミッションに皆が燃えた。
関係機関との連携の下、大量の漂流物の回収が進められた。関係機関との打合せ、水深測量の結果の確認等々、深夜に及ぶ作業が続く。同港は、航路が狭く、浅瀬もあるが、入港の安全を確保するための灯浮標が流出している。創意工夫し、俵型の浮きと旗竿を一体化したものを簡易標識として、航路に設置し、やっと安全が確保された。3月17日、救援物資を積んだ船舶が同港に入港。そして、21日、ガソリン等を満載したタンカーが巡視艇に先導され、無事入港。ガソリン等が東北各地に配送された。
物資輸送船やタンカーが入港する姿を見て安堵したとともに、これらの船舶によって多くの被災者を助けられたものと確信した。
VOICE 被災港湾の航路啓開を行って
緊急輸送路の確保のために水路測量に従事した測量船乗組員の声
本庁海洋情報部 測量船「昭洋」観測士補 川内野 聡
私達「昭洋」乗組員は、震災直後に八戸港、久慈港、大船渡港、気仙沼港、また、4月に釡石港、宮古港において、測量機器を搭載した測量艇により、測量調査を行った。
八戸港に到着した時は雪が降っており、震災当時、南西諸島で行動中であった私達にとって、気温差が20℃を越える環境であった。被災港湾では、陸地に打ち上げられた漁船や貨物船があったほか、津波で流されて半分以上が海中に沈んでいる家もあった。また、測量調査を行った結果、崩壊した防波堤が海底に確認できるなど、津波被害の悲惨な状況が徐々に明らかになってきた。
各港において測量艇による測量調査を行ったが、多量のゴミやがれきが海上に存在しており、測量艇にそれらが絡んで動けなくなってしまうおそれがあったため、船外での見張りを強化するなど、その作業は、まさに困難を極めた。しかし、そのような厳しい状況の中でも、被災地に届ける物資を積んだ船舶が一日でも早く入港できるようにするため、細心の注意を払い、測量調査を行った。
今回の震災においては、迅速に測量調査を実施し、航路啓開をすることの重要性を再認識するとともに、港湾機能の早期回復に貢献できたと自負している。
VOICE 仙台航空基地が津波に襲われたとき
甚大な津波被害を受けた航空基地職員の声
第二管区海上保安本部仙台航空基地 飛行士 南谷 真也
地震発生直後の基地では、大きな余震が続く中、空からの被害調査を迅速に行うべく、ヘリコプター2機を次々と離陸させた。一方、飛行機2機も、急いで出発準備を整えたが、滑走路が閉鎖となり、離陸できない状況だった。
間もなくして、沖合で巡視船が大津波に遭遇したとの情報が入ったため、津波に対する警戒を強め、2階の窓から外を見ていたその時、防砂林が次々と倒れ、水柱が上がり、空港ターミナルのある海側の方から、数百台の車両と航空機が大きな壁となって近づいて来た。ふと見ると、1階は既に氾濫した河川のようになっており、身の危険を感じたため、急いで屋上まで避難した。
空港を飲み込んだ大津波は、ますます勢いを増したが、水位は、かろうじて基地の2階の下に達したところで留まり、私達は危機一髪で難を逃れた。一夜明けても水位に変化がなかったため、自力で脱出しなければならないと判断した。格納庫にあるゴムボートを取りにいくため、漂流していたプロパンガスボンベをLANケーブルで縛って筏を作り、その後、折り重なった航空機を足場に胸の高さまである水に浸かりながら、格納庫へ向かい、なんとかゴムボートの引き出しに成功し、そのゴムボートを使用して全員無事に庁舎を脱出することができた。前日の津波襲来から実に18時間以上が経っていた。
災害に対する十分な備えが重要だと改めて思い知らされた。
VOICE 巡視船「やひこ」の活動
震災直後から派遣され、様々な活動に従事した巡視船航海長の声
第九管区海上保安本部新潟海上保安部 巡視船「やひこ」航海長 松田 政文
新潟における整備作業中に発生した大震災。「やひこ」乗組員の中には出張や研修のため不在者が多数いたが、一刻も早く救助活動をせねばとの思いから、その当日、釡石沖に向け新潟を出港した。翌12日、岩手県沖に入り、多数の大型コンテナや漁船が漂流する中、漂流者の有無を確認しながら航行し、夕刻、釡石沖に到着した。そこは、灯台の倒壊や多数の転覆漁船、がれき等が散在し、まさに修羅場と化しており、自然の脅威に対する無力感と、無情な津波への怒りが沸々とこみ上げてきた。
釡石沖での活動中は、多数のがれき等が散在する海域での捜索救助のほか、救助活動にあたっている巡視船等の推進器への絡索等が頻発していたことから、潜水士によるこれらの除去作業等にも多忙を極めた。
余震が多発する中、釡石港に着岸し、庁舎が被災した釡石海上保安部としての役割を担うこととなり、行方不明者の潜水捜索と平行して実施した海上保安部の業務では、国民からの期待と重要性を改めて認識した。また、地震発生から2週間もの間入浴すらできなかった被災者の方々に「やひこ」の浴室を提供した。入浴後、被災者の方々の表情は大変明るく、ホッとした笑顔と、いただいた感謝の言葉を印象深く記憶している。